できないことが心地いい
25歳を過ぎて、この地球が自分のためにできていないことに安心するようになった。
私は小さい頃から頭の中でいろいろと深く考えてしまう癖があって、そういうタイプの人はいろんなことに対する自分なりの答えを多く持っている傾向にあるのかな、
悪いことじゃないけどその反面、それが苦しいなと感じることもたくさんある。
いろんなことを考えていると、たいがい何らかの問題点が見えてくる。
特に学生時代に大切だと教えられた「批判的思考法」(クリティカルシンキングともいうらしい)がやっかいで、考える癖がある人がこれをやると普通に過ごしていても気づいたら自分自身や身の回りのできごと、さらに社会に関する問題点に目が向いてしまう。
で、問題点が見つかるとモヤモヤした気持ちになる。
このモヤモヤには大まかに分けると問題の存在自体へのモヤモヤと、解決策を見つけられないモヤモヤの2つがあると思うけど、このモヤモヤがどちらも非常によくない。
モヤモヤしていると、大概は怒りや困惑に行き着く。
こういう強い感情を抱いているとき、無意識に、自分自身に強い意識が向いてしまうのがよくないのだ。
私は自分自身に疲れ果ててしまった。
(自滅なのでは…)
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話が変わるが、私は25歳くらいまで自分が「できないこと」は悲しいことだと考え、かなりネガティブに捉えてきた。
化けザリガニのできないことはいろいろある。
・コーヒーが飲めない(具合が悪くなる)
・炭酸が飲めない(痛い)
・お酒が飲めない(すぐ吐いてしまう)
・乳製品もほとんど食べられない(乳糖を分解できない)
・人前でスラスラと話せない
・すぐ緊張し、動揺する
・体調が良い日でないと、長時間立っていることができない(気持ち悪くなってしまう)
などなど。
何かをできないことは努力が足りないから、できるだけ努力すればいい。
ならば努力してもどうしようもないことは…?
特にコーヒーとか炭酸とかお酒に関しては、この世って全然自分のためにあるんじゃない、ということを私に教えてくれた。
でも25歳を過ぎたくらいから、この世の中が私のために存在していなくて、自分がちっぽけな存在で、姿を隠そうと思えば簡単だということにむしろ安心感を抱くようになってきた。
それは多分、今まで自分自身の思考や怒りの感情に散々疲れさせられてきたからだと思う。
すると、だんだん「できないこと」に対する考え方も変わってきた。
つい今夜、コーヒーが有名な大好きな喫茶店に付けていくために、まったく飲めないコーヒー色のアクセサリーを作ってみたりした。とても気に入っている。
いまは「できること」より「できないこと」のほうが人間味があっておもしろいとさえ感じる。
人々が「できないこと」に対して抱くコンプレックス的な感情も素敵だ。本人はそのせいで苦しいかもしれない、でもそれがリアルな人間の生きづらさで、この時代を生きる、その人だけの生活で。
それこそが世界に一つのその人らしさなのではないか、なんて思っている。
私たちはたぶん、みんな「自分」というドラマの主人公だ。いや、別にドラマの主人公なんかじゃなくても、生き物が生きていることそれ自体が美しくて最高のお洒落だ。
今夜もまた明日も「できないこと」を身に纏ったり時には窓際に飾ったりしながら、美味しいお茶を飲みたい。